“移住編集者”国本真治さんが語る、
屋久島へ移住し、
ひとりで出版社と雑誌をつくったワケ
屋久島発のインディペンデントマガジン、『サウンターマガジン』をご存知ですか?東京の出版社で15年働いていた国本真治さんが、屋久島へ移住し、ひとりで出版社を立ち上げ、ひとりで作り上げたインディペンデントマガジン。今回は、その国本さんに、屋久島移住の経緯から、東京と屋久島のデュアルライフ、『サウンターマガジン』立ち上げまでのお話を伺いました。
── はじめに、国本さんの経歴を教えてください。
「生まれも育ちも大阪で、もともとは大阪の編集プロダクションで編集者として働いていました。その後、東京のINFASパブリケーションズに中途入社し、15年間広告営業として『STUDIO VOICE』や『WWD JAPAN』を担当。INFASで初めて広告営業をやったんですが、向いていたのか、気づけば広告マネージャーになっていました」
── そもそも“移住”のきっかけは、なんだったのでしょうか。
「ちょっと複雑で自分でもうまく説明できないんですが……、2010年に娘が生まれて、都内で新居を探しはじめました。でも翌年、3.11東日本大震災が起きました。私も妻も身内や親戚はみんな関西にいて、東京で家を買うっていう気持ちが一旦途切れてしまったんです。ただ仕事もあるし、食ってかなきゃいけない。そうこうしているうちに2013年3月、当時の上司が急性心筋梗塞で突然亡くなった。僕は彼と亡くなる前日の夜中まで、数時間前まで一緒にいて、普通に話をしていたんです。衝撃的な出来事で、ここで自分が変わらないと後悔する、人生変わらないと決意。7月には屋久島に家を借り、妻と娘を屋久島に先に移住させました。僕自身はまだ会社員だったので、安いところに引っ越し、逆単身赴任みたいな形で東京に残りました」
── 現在、二拠点生活の比重は月の半分半分ですか?
「そうですね。東京で普通に家を借りているので、1カ月東京にいることもあるし、まるっと1カ月屋久島にいることもあります」
── 数ある移住先で、屋久島を選んだ理由とは?
「結局“縁”なんですよね。大阪時代の友達が屋久島に移住してて、2012年に遊びに行ったら、すごいよかった。住みたいなーなんて、頭の片隅に置いていた矢先、先述した知人の死で踏ん切りがついた。僕は、離島だけど不便すぎず、ある程度の生活インフラが整っているところがよかったんです。島民が1万人以上いて、島民全員が知り合いではないけど、なんとなく顔見知りみたいな屋久島は合っていました。あとは、屋久島が持つ独特の魅力も惹かれました。屋久島には標高2000メートル級の山々が連なっているんですが、海から島を見ると突然海から山が生えているように見える。そんな島は世界的に見ても屋久島しかない。北海道にしか咲かないような花が、屋久島の山の上には咲いていたり。山の麓にはハイビスカスが咲いているのに、山頂には雪が積もっている。屋久島内でも北と南では気候が違っていたり、本当に不思議な島」
── 屋久島の山に、雪が積もるなんて知りませんでした。
「『サウンターマガジン』創刊号では、その“南の島なのに雪”っていうのを見せたかった。2019年2月に、写真家の加戸昭太郎さんに屋久島に来てもらい撮影しに行ったんですが、その年は暖冬で雪がなかった。でも加戸さんが東京へ帰ったあとに、降るっていう笑。運がなかったけど、こればっかりはしょうがないです笑」
── 移住に対して、ご家族の反応はどうでした?
「妻は「いいやん!」って笑。いま屋久島で、私達のホテル+ヨガスタジオ『アナンダチレッジ』でヨガを教えてるんですが、本人は僕より楽しんでますよ。娘は3歳で移住したので、今はもう屋久島の記憶しかないですね」
── 『サウンターマガジン』が生まれたきっかけを教えてください。
「移住してはじめの2年は賃貸で暮らしていたんですが、2015年に自分たちの住居も兼ねた、ホテル兼ヨガスタジオの『アナンダチレッジ』を作りました。この施設を経営しながらも、漠然と屋久島の雑誌を作りたいという思いがあったんです。そんなとき、加戸さんが撮影で屋久島に来てて、夜ご飯食べながら話していたら、屋久島の写真集を作りたいって言ったんです。だったら一緒にやろう、と。僕が雑誌を作るから創刊号は彼が全部写真を撮ればいい、と。そして、屋久島で出版社を立ち上げ、制作が始まりました。結果的には、想像以上に制作費がかさんでしまったんですけど笑」
── 迫力のある、美しい写真が印象的です。
「『サウンターマガジン』は、“旅のドキュメントを写真で伝える”をコンセプトにしているので、写真をキレイに見せるという点にはこだわっています。まわりには、ウェブメディアやウェブマガジンで始めればよかったのに、とかよく言われたんですが、ひとりで随時更新するのはなかなか難しいし、あまり惹かれない。だから、情報量ではなく情報の質、そしてウェブでは表現できない美しい写真や特殊加工など、紙にしかできないことに特化して表現しています」
── エッセイを書かれている方々も多彩です。
「創刊号では、屋久島にゆかりのある方々にエッセイを書いていただきました。養老孟司さんは、よく島にいらっしゃっていたので、ダメ元でオファーしたら、いいよって言ってくれて笑。彼らや書店に助けられたおかげで、創刊号は2000部刷って、直販だけでほぼ完売。取次を通さない直取引で9割が売れて、自分でも本当にびっくりしました。取次経由だと7割で完売と言われる出版業界で、9割消化なんてありえないんで」
── 9割消化はすごいです。
「ただ、そんなに売れたのは創刊号だけで、2号目は4000部刷ったんですが、今も在庫が残っていますね。というのも、2号目の発売日は2020年4月1日だったんですが、取引書店が新型コロナの影響でほとんど閉まってしまったんです。でも、2号目を撮ってくれた写真家の石川直樹さんや、特集したアシュタンガヨガ正式指導者・更科有哉さん、エッセイを書いていただいたプラントハンター・西畠清順さんらが、ご自身のSNSで宣伝してくれたおかげで、アマゾンで爆発したんです。実は2号目には『情熱大陸』に出た人が4人も参加してくれてて。やっぱり1号作ったら、それを見本にオファーしやすくなるんで。みなさんやりたいと声を挙げてくれて、助けられました」
── インディペンデントマガジンを出す意義をどうお考えですか?
「雑誌としての“使命”とか、“媒体として価値のある残り方”は絶対にあると思うんです。インディペンデントマガジンを作っている者同士って、ライバル意識はなくて、一緒に戦う仲間、コミュニティだと思っているはず。なぜなら、インディペンデントマガジンは基本的に儲からないから。お金儲けのためにやっている人はいなくて、好きでやってる人しかいないですよね。一昨年に参加した瀬戸内アートブックフェアでは、そういう人ばっかりとたくさん知り合いになれたので、とても楽しかったです」
── これからの時代、国本さんみたいな働き方は編集者でも増えていくでしょうか?
「まだまだ主流にはならないでしょうけど、増えると思いますね。ZOOM会議とか、もう普通じゃないですか。ただ、こういう生活をしていると、“心理的な距離”をもたれることがあるんです。二拠点生活をはじめてから、「国本に相談しても、あいつ屋久島にいるしな」っていう出来事が何度かあったんです。僕、月の半分、年の半分は東京にいるのに、屋久島のイメージがまわりにはあるんですよね。逆に屋久島にいると、「あれ?東京じゃなかったんだ」って言われる。二拠点生活って、どちらからも“ここにいない”って思われるんですよ。心理的な距離が遠くなっていく。これが二拠点生活のデメリットで、ブランディング上の課題ですかね」
── これからの時代、編集者に必要な能力はなんでしょうか?
「それでいうと、僕、編集者能力はないんですよね。『サウンターマガジン』もアドバイザーとして尊敬する先輩編集者の柴田隆寛さんに入ってもらい、僕に足りない部分を助けてもらっています。編集者にもタイプがあると思うんです。ポジショニングマップの中で、自分がどのタイプかっていうのを、理解することが大切だし、理解している人のほうが仕事はくるはず。それでいうと、僕はプロデューサー型の人間。僕は柴田さんのような天才編集者ではないけれど、プロデューサー的な動きができる。自分のポジションを知り、それが発揮できる動きをすることが必要なのかと。あとは、どんなジャンルの仕事をやっていたとしても、下請けじゃなくてメーカー、発信側になりたいという思いが僕にはあります。メーカーになれば、売れるかどうかはともかく、自分たちで生み出していく限りは、仕事はある。とか言いながら、僕、めちゃくちゃクライアントワークやりたいし、絶賛募集中なんですけどね笑」
国本真治/Shinji Kunimoto
くにもとしんじ■大阪出身。大阪の編集プロダクションを経て上京、INFASパブリケーションズに入社。15年間『WWD JAPAN』や『STUDIO VOICE』という媒体を担当したのち独立。2018年9月にキルティ株式会社を設立して『サウンターマガジン』を年2回発行している。「サウンター」は、「ゆっくり歩く」「散歩する」という意味。