編集者・橋本安奈さんを突き動かす
エストニアへの想いと使命感

編集者・橋本安奈さんを突き動かすエストニアへの想いと使命感

エストニアという国をご存知でしょうか。バルト三国のひとつで、人口約132万人、面積は九州ほどの小さな国です。このエストニアに魅了され、エストニアの魅力を発信する編集者が新潟県にいることを、またご存知でしょうか。今回は、そのエストニアに魅せられた編集者・橋本安奈さんに、彼女を突き動かすエストニアへの想いを聞いてみました。

イベントで声をかけられ
数週間後にはエストニアへ

── まずは、橋本さんのご経歴を教えてください。

「同世代の間ではよく珍しがられるんですけど、私は紙媒体をメインに制作してきた編集者で、新卒で木楽舎に入社し、雑誌の『ソトコト』をつくっていました。4年ほど働いたのち、ユーフォリアファクトリーという編集プロダクションに転職。旅雑誌『TRANSIT』の編集部で2年働き、結婚を機に新潟へ移住して、現在はフリーランスとして活動しています」

──フリーランスになられてからは、地元のお仕事も含め、どういったお仕事をされているのでしょうか。

「WEBや紙のメディアで記事を書いたり、書籍をつくったり、前職の仕事を手伝わせてもらったりしています。最近は新潟の企業や自治体のお仕事も少しずつ増えてきました。ものづくりや農業といった新潟らしいテーマのものが多いですね。一方で、バルト三国のひとつであるエストニアという国の仕事もしています。2020年でいえば、エストニア政府が主導するデザインプロジェクトへのオファーをいただき、コンテンツ制作やPR、イベント登壇などを担当しました。「イデーショップ 自由が丘店」と「SPBS(Shibuya Publishing & Booksellers)虎ノ門店」でエストニアのプロダクトデザインを展示販売するという内容のもので、参加した十数名のエストニア人デザイナーにインタビューして記事も執筆しました。オンラインイベントでは、TRANSITのエストニア取材のことを中心に話しました」

── 急角度でエストニアが出てきましたが(笑)、エストニアとのそもそもの出会いのきっかけを教えてください。

「話すと長いので割愛しますが……5年前にトークイベントに出演したとき、見に来てくれた方から「君はエストニアという国が好きそうだから行ってみれば?」と助言されたんです。そのときに初めてエストニアという国のことを知りました」

橋本さんが担当した『TRANSIT』のバルト三国特集号。この特集でエストニアとの交流を広げていったという。

橋本さんが担当した『TRANSIT』のバルト三国特集号。この特集でエストニアとの交流を広げていったという。

── また急展開(笑)。

「しかも実際に行ける機会までとりつけてくれて、当時働いていた月刊誌の取材旅行として行くことになりました。ちょうどその月に予定していたのがソーシャルアントレプレナー(社会起業家)特集で、ITが進んでおり世界一起業がしやすい国のひとつであるエストニアはたまたま特集内容にも合っていたんです」

── で、初エストニアに?

「はい。良くも悪くも思い立ったらすぐ行動するタイプで、“ここには何かありそうだ!”と直感したので(笑)。困惑する上司をなんとか説得し、イベントの3週間後くらいには日本を飛び立っていました。単身カメラを片手に約1週間半滞在して、地方のスモールビジネスから若手IT起業家のコミュニティまで幅広く取材しました」

人間らしい暮らしと、ひとを
大切にするエストニアに惹かれる

── すごい(笑)。初のエストニアはいかがでしたか?

「エストニアの“ひと”にびっくりしました。年上のひとと接してもフラットですし、ギスギスしてないし優しくておおらかなひとが多い。距離感が日本人と近い気がしました。一方で、彼らは“スマートレイジーライフ”と呼んでいるのですが、最新のテクノロジーを使って無駄な時間を削り、余った時間でサウナに入ったり自然と触れ合ったり、人間らしい豊かな暮らしをしています。人間らしく生きるためにテクノロジーを使う点で、技術そのものが目的になることが多い日本とはちょっと違う気がしました。日本人がエストニアから学べることはすごくあると思っています」

── 何か印象に残っていることはありますか?

「現地で出会ったエストニア人のコーディネーターさんが本当に素晴らしい方で、大切なことをたくさん教えてもらいました。印象に残っているのは、首都のタリンから第二都市・タルトゥに向かう途中、電車のなかで『歌う革命』について教えてもらったときのこと。YouTubeでソヴィエトから独立する後押しとなった革命の歌を流してくれたのですが、コーディネーターさんが涙を流し始めて。「この歌を聴くと、どうしてもだめなんです……」と、当時の辛かったことを話してくれました。エストニアの30〜40代以上の世代は、ソヴィエトの苦しい時代を経験しているのだと実感した瞬間でしたね。そのときは起業をテーマにした取材でしたが、エストニアの歴史やソヴィエト下でも失われることなく受け継がれた伝統文化や言語などを含め、エストニアのことをもっと深く知りたいと思いました」

── エストニアには何回、行かれてるんですか?

「2回しか行ったことがないんです。2回目は、TRANSITのバルト三国特集の号の取材で行きました。実は私、会社の採用面接で「エストニア号をつくりたいです!」と熱弁して入社したんですよ」

── 意外にも2回だけなんですね!

「私自身は2回しか行ったことがないんですが、取材を通して仲良くなったエストニアのひとたちが、(コロナ禍前は)年に数回日本に来ていました。特に伝統音楽のミュージシャンやデザイナー、アーティストたち。彼女たちが来日する際は一緒にごはんを食べ、街案内をしましたね。もちろんSNSも繋がっています。エストニアの知り合いは、30〜40人くらいなんですが、関わり方が濃いというか、ちゃんと見てくれてるんですよね」

エストニアの友人・知人から反響が大きかったというエストニアの要素を取り入れたウェディングケーキ。

エストニアの友人・知人から反響が大きかったというエストニアの要素を取り入れたウェディングケーキ。

── 見てくれているとは?

「ひとつひとつの投稿を読んでくれている気がします。例えば、先日私が挙げた結婚式で、ウェディングケーキに“エストニアの要素”を取り入れました。その写真を見て、エストニアのひとたちがすごく反応してくれて。エストニアって人口が約132万人で、さいたま市と同じくらいなんです。コミュニティが比較的小さいからなのか、ひとを大切にする思いやりのあるひとが多いなと感じます。取材した時も、どこへ行っても必ず知り合いがいるので悪いことはできないと言ってるひとがいました(笑)。エストニアに行けない間も、ささやかですがあたたかなやりとりがあるので、やっぱりエストニアっていい国だなと感じています」

エストニアを伝えることへの
勝手な責任感と使命感

── はじめにエストニアのデザインプロジェクトのお話がありましたが、他にもなにか手がけているお仕事はありますか?

「今年の2月には、新潟市古町にあるデザイン会社さんと一緒に『エストニアのデザイン展』というイベントを開催しました。東京でのデザインプロジェクトとは違って、こちらは完全に自主企画です。1年前に新潟へ引っ越してから、出会うひとに勝手にエストニアの魅力をプレゼンしているのですが、面白がってくれるひとが見つかって。「エストニアのイベントをやりませんか?」と誘ってみると二つ返事でOKしてくれました」

── どんなイベントだったんですか?

「13組のデザイナーが手がけたプロダクトを250点ほど集め、解説つきで展示販売しました。また、新潟とエストニアのデザイナーがローカルデザインについて話すオンラインイベントもやってみました。エストニアのデザイナーのなかには、アップサイクルの手法に優れているひともいます。資材が少ない国でもあるので、コミュニティの小ささを生かし、余っている資材の情報を集め、パッチワーク的にものづくりしていく手法を取るひとも多い。エストニアのデザイン展では、この手法でつくられたプロダクトを中心に展示したんですが、このアイディアに興味をもってくれたデザイナーやものづくりに関わるひとが結構いました。東京から新潟へUターンしてきたジュエリーデザイナーは、燕三条の金属部品の廃材からジュエリーをつくるコンセプトのもと、ブランド名をエストニア語にしたいと言ってくれて。エストニアというキーワードがわずかながら浸透し、伝わったことが嬉しいです」

── その他に最近取り組んでいることはありますか?

「提案段階なのですが、新潟のものづくり工場から出る廃材でエストニアのデザイナーと何かできないかなと考えています。各工場には半製品や加工途中に発生する廃材などが眠っており、なには美しい形や上質な素材のものもあります。それをエストニアに送って、アップサイクルが得意なデザイナーにアレンジしてもらうとか。デザイナーからすると、今までにないような斬新な素材に触れられますし、日本側としては新しい廃材の活用方法を模索できて面白い国際プロジェクトになるんじゃないかと思っています」

2021年2月に新潟で開催した『エストニアのデザイン展』。右上は、エストニアのデザイナーとのオンライントークショーのひとコマ。右下は、エストニアのデザイナーが手がけたブランケット。

2021年2月に新潟で開催した『エストニアのデザイン展』。右上は、エストニアのデザイナーとのオンライントークショーのひとコマ。右下は、エストニアのデザイナーが手がけたブランケット。

── エストニアのことを本当に考えていて、エストニアへの情熱や愛が本当に感じられます。

「そうですね。今はひたすらエストニアのことを伝えたいとか、残したいという気持ちになっています。勝手に責任感を感じているというか。エストニアは今、ソヴィエトから独立後30年が経ち、社会主義も抜けてやっと自分たちのアイデンティティが見つかってきた、そんな状態にあると思うんです。ものすごい勢いで社会が変わろうとしているなかで、日本では失われたものが、エストニアにはまだ残っているような気がしていて。変わる前にとにかく何か残したいという想いが強いです。それは、文章でもいいし、動画でもいい。手法は模索中ですけど、近いうちに“エストニアを残すための旅”を考えていたり、エストニアの大学院に行くことも考えています。なにかこう、使命感があるんですよね。勝手に、ですが!」

── 使命感とはすごい! そして、エストニアの魅力を見つけ、整理し、伝わるものにする、橋本さんのしていることはまさに編集者の仕事のように感じられます。

「イザベラ・バードやラフカディオ・ハーンが記したような、“海外のひとから見た日本”って面白いと思うんです。彼らは日本が近代化する節目の時代にやってきて書き残していった。書き手や編集者として、個人的には後世に役に立つものが残せる、貢献できることが一番の喜びです。外国人の目線でエストニアのことを書き残すことも、価値があるんじゃないかなって。しかもそんなひとが新潟にいるんだよってなったら、もっと面白いんじゃないかと思っています。おばあちゃんになったときに、孫にちょっと自慢できそうですし(笑)。最終的には新潟からエストニアまで飛行機の直行便が出る、なんてことになったら、最高ですよね」

Profile

橋本安奈

橋本安奈/Anna Hashimoto
はしもとあんな■木楽舎にてソーシャル&エコマガジン『ソトコト』の編集を4年間、ユーフォリアファクトリーにて旅雑誌『TRANSIT』の編集を2年間経験。雑誌編集以外にも『発酵文化人類学』(木楽舎)や『関係人口をつくる』(木楽舎)など書籍の編集や、自治体を中心とした移住促進などの企画やディレクションを手がける。2020年9月、結婚を機に新潟へ拠点を移し、フリーランスに。現在は、TRANSITの制作を続けながら、バルト三国・エストニアの政府が主導するデザインプロジェクトの企画・編集や、企業や自治体の媒体で編集・執筆を行う。

[編集後記]

「これからどんな編集者になっていけばいいんだろうって悩んでます」。これは取材中に、橋本さんがふと漏らした言葉だ。今回の取材をお願いしたとき、橋本さんには一度断られた。「エストニアの仕事はまだ形になってない」という理由からだった。なんとか実現し、当日エストニアの話題になると、スイッチが入ったかのように語り始めた。パソコンの画面越しに伝わる熱量。橋本さんを突き動かすのは、エストニアを伝えたい、残したいというプリミティブな想いだ。ジャンルや業種を越境する編集者がいるなかで、ひとつを突き詰め専門性を高めるのも編集者。伝えたい、ひとの心を動かしたいと思うのもやっぱり編集者。形になってないことはない。私の心はすでにエストニアに興味津々。答えは単純明快。橋本さん、答えはもう出てますよね?

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